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布施(市)医師会は、中河内郡医師会と称し、会長は八尾の辰巳先生、副会長には布施の浅井興吉先生が就任していた。昭和12年4月、布施市誕生とともに、大阪府医師会布施支部と称する医師会が設立され、初代会長に浅井興吉先生が就任した。戦後、 占領軍司令部から諸団体に出された解散命令は医師 会も例外ではなく、大阪府医師会が草案の第3次改正を経て新時代にふさわしい新制大阪府医師会に生まれ変わったのを機に、郡市区医師会も法的に同格の社団法人としてスタートする。布施市医師会もこの流れの中で法人格をもった「社団法人布施市医師会」として昭和22年11月1日の設立で、昭和23年1月21日に登記され、この時から50年の力強い一歩を踏み出すことになった。 といっても戦後の混沌とした状態は、目ざましい経済復興を遂げる中にあっても昭和30年代まで尾を引き、わが布施市医師会も昭和36年、医師会館が建設されるまでは、事務所を別表のように安田医院、或は、駒井医院の一室を借り、総会は布施労働会館、理事会は料亭松園等で行うというタコの足的運営がつづいていた。昭和20年代は100人台を推移していた会員数も昭和32年に200人を超え、自前の医師会館建設は時代の要請でもあった。 |
その話が現実的に浮上したのは、西浦勇5代会長、駒井副会長の時代であり、会館の必要性は分かっても会館を建設するだけの資金を当時の医師会はもっておらず、集める目途もなかった。何よりも土地問題を解決しなければならず、西浦会長、駒井副会長をはじめ寺戸先生ら当時の理事が夜ごと集まって準備と青写真について話し合ったという話が残っている。
では、その用地をどうやって確保するのか。井上次郎先生は布施医師会40周年記念特集号(1988.第 50号)で次のように述べている。「幸い松井先生 (第7代会長)が、宝持に空き地を相当持っておら れたので、この土地を拝借できないかということになった。松井先生は事情をご理解しておられたが、奥様の反対があり、これとて容易ではなかった。然 し、松井先生のご説得で奥様も納得され、会館用地 と駐車場の目途は何とか立った。次は建設資金である。当時の金で約工費400万円と見ても医師会にそ んな金はない。理事会で色々話し合い、結局、1診療所当たり3万5,000円の拠出をお願いし、無利息で10年間借り、以降返済するということになった。 然し、これより他に方法がないのだから仕方がない。 |
![]() 昭和36年3月12日 布施市上小阪638に社団法人布施医師会館完成 |
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| 当然、総会で反対意見もあったが、反対意見は覚えていない」と。 次に工務店である。西浦会長知り合いの工務店に話を持ち込み、社長を理事会に招いてすったもんだの末、値切り倒して説得した。これが“大誤算"だったという。 井上先生は「我々の考えはまことに甘く、後々までに大変な迷惑をかけることになった。大会議室には80人も入れば十分と考えて設計したが、会員数が増えるとともに、それが現実にそぐわないことが徐々に分かってきた。これは当時の役員の責任であることは十分理解している」と語っている。 | ![]() 昭和36年、落成式当日の講堂内スナップ (式典あいさつは、西浦 勇 5代会長) |
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それでも昭和36年3月12日に完成記念パーティーを開くことができ、「屋根が落ちそうだ」という “不評"をかこちながらも耐用年数の30年はとっくに過ぎ、40年に手が届くところにきている。その間、理事会や総会、講演会、同好会等、その時々の会合、催しが開かれ、それな引こお役に立ってきたことも忘れてはならない。この医師会活動を縁の下で支えてきた歴代事務局員のご苦労も多とするところである。 |
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